萩原朔太郎の説明


プロフィール&代表作

萩原朔太郎

詩人
1886(明治19)年11月1日 前橋生まれ。
代表作:「月に吠える」「青猫」「純情小曲集」「氷島」
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萩原朔太郎年譜

前橋文学館編

西暦 和 暦 年齢 事  項
1886 明治19 0歳 11月1日群馬県東群馬郡前橋北曲輪町六十九番地(現・前橋市千代田町二丁目)に父萩原密蔵・母ケイの長男として出生、父は開業医。
1889 明治22 3歳 このころ近所の家で借りたオルゴールに強くひかれる。
1890 明治23 4歳 11月妹ワカ生まれる。
1892 明治25 6歳 4月群馬県尋常師範学校附属幼稚園入園。7月大阪の従兄萩原栄次(15歳)が萩原家に来住、9月群馬県前橋中学校に入学(1896年修了)。朔太郎は栄次を兄として慕い、以後多くの影響を受ける。
1893 明治26 7歳 4月群馬県尋常師範学校附属小学校入学。学校はあまり好きでなかった。読書を好み手当たりしだい読む。
1894 明治27 8歳 11月妹ユキ生まれる。
1897 明治30 11歳 4月群馬県尋常師範学校附属小学校高等科入学。
1898 明治31 12歳 1月弟弥六生まれる。
1900 明治33 14歳 2月妹み祢生まれる。4月群馬県前橋中学校入学。11月萩原栄次大阪高等医学校(現・大阪大学医学部)卒業後再度来住(1902年まで)、密蔵の代診を務める。このころハーモニカ、手風琴などを楽しむ。『古今集』を読む。
1901 明治34 15歳 この年鳳晶子歌集『みだれ髪』を読む。萩原栄次から短歌作法を学ぶ。
1902 明治35 16歳 4月写真機を買う。11月平井晩村らの発起による文芸誌「新声」の上毛誌友会に出席。12月中学校校友会誌「坂東太郎」に短歌5首を発表。以後、10余年「文庫」「明星」「スバル」「朱欒」等文芸誌に短歌を発表する。
1903 明治36 17歳 このころ同校で級友有志らと回覧雑誌「野守」を出す。
1904 明治37 18歳 2月妹アイ生まれる。このころ日曜ごとにキリスト教会へ行く。中学校5年進級ならず。
1905 明治38 19歳 2月馬場仲子(恋人、後のエレナ)の招待で、共愛女学校の文学会に行く。4月中学校5年進級。7月「坂東太郎」を編集。
1906 明治39 20歳 3月前橋中学校卒業。音楽家になる志望をもっていたが家の反対もあった。4月前橋中学校補習科入学。9月早稲田中学校補習科入学。
1907 明治40 21歳 9月第五高等学校(熊本)入学(英語文科)。
1908 明治41 22歳 7月第五高等学校2年進級ならず。9月第六高等学校(岡山)入学(独語文科、独語法科)。
1909 明治42 23歳 7月第六高等学校2年進級ならず。この年エレナは高崎の佐藤医師に嫁ぐ。
1910 明治43 24歳 4月帰省、このころ進路について悩む。5月第六高等学校退学。以後、東京に滞在、音楽・美術・演劇・歌劇等に親しむ。
1911 明治44 25歳 2月比留間腎八についてマンドリンを習う(3、4ヶ月)。5月慶應義塾大学部予科1年入学(11月に退学)。6月田中常彦についてマンドリンを習う。
1912 明治45
大正元
26歳 6月「読売新聞」に「歌劇『釈迦』の感想」、8月「音楽界」に「国民音楽に関する所感」を発表。9月京都大学受験、入学ならず。
1913 大正2 27歳 前橋に帰る。4月このころ自筆の歌集『ソライロノハナ』製作。北原白秋主宰の雑誌「朱欒」掲載の室生犀星の詩に感動、手紙を書く。5月号「朱欒」に「みちゆき」ほか詩6篇が掲載され、詩壇に登場。
1914 大正3 28歳 1月自宅の建物を洋風の小部屋に改築(後に「ゴンドラ洋楽会」の集会場所ともなる)。2月室生犀星初めて前橋来訪、利根川河畔の旅館一明館に1カ月近く滞在し朔太郎との交友を深める(以後、親交は生涯続く)。3月下旬ころ上京、室生犀星と東京大正博覧会を連日のように見物。6月室生犀星・山村暮鳥と「人魚詩社」を設立。8月前橋で若い歌人・詩人たちが「侏儒」創刊、指導的立場につく。このころ「詩歌」「創作」「異端」「アララギ」「鈴蘭」「風景」「地上巡礼」等に盛んに詩を発表。10月「音楽」に「詩と音楽の関係」を発表。北原白秋を訪問。この年、引き続きエレナへの恋愛がある。年末ごろから翌年にかけて「浄罪詩篇」の詩を書き雑誌に発表(後に『月に吠える』に所収)。
1915 大正4 29歳 1月北原白秋来橋し1週間ほど萩原家に滞在、「侏儒」同人らと交流。3月人魚詩社から「卓上噴水」創刊(3冊で終刊)。4月北原白秋創刊の「ARS」に詩を発表。6月号各誌へ作品を発表した後翌年5月号まで発表中断。8月上旬上京、女子音楽学校でギターを習う。10月室生犀星来橋。続いて初来橋の竹村俊郎をともに前橋駅で迎える。
1916 大正5 30歳 1月朔太郎主宰「ゴンドラ洋楽会」(後に「上毛マンドリン倶楽部」に改称)第1回演奏会開催、4、5年前からマンドリンやギターの合奏など演奏活動を行い、1925年の離郷まで続く。その間”A WEAVING GIRL”(機織る乙女)を作曲したのをはじめ、編曲なども多く手がける。このころドストエフスキーを読む。(そのほかポー、ニーチェに影響を受ける。)4月このころから自宅で毎週1回「詩と音楽の研究会」開催、萩原恭次郎ら十数人参加。県内誌「狐の巣」、山村暮鳥個人誌「LE PRISME」にも作品発表。6月室生犀星と二人雑誌「感情」創刊。10月ごろ詩集出版計画を本格的に進める。
1917 大正6 31歳 2月第一詩集『月に吠える』刊行(感情詩社・白日社)、500部。風俗壊乱の理由による詩集中2編の削除処分に対し「風俗壊乱の詩とは何ぞ」と題する抗議文を「上毛新聞」に発表。3月大手拓次を訪問。森鴎外、斎藤茂吉を訪問し詩集を贈る。4・5月号「感情」が『月に吠える』関係の特集等を組む。
1918 大正7 32歳 1月室生犀星著『愛の詩集』刊行に資金援助。4月号「感情」「短歌雑誌」への発表を最後に詩作品の発表を中断。この春、父密蔵前橋医師会会長となる。6月号「秀才文壇」が特集で朔太郎・犀星を新詩人として紹介。
1919 大正8 33歳 5月上田稲子と結婚。6月若山牧水来訪。8月「文章世界」に初めてアフォリズムを発表。10月萩原家は石川町(現・紅雲町二丁目)に転居、萩原医院は妹ユキ夫妻が入り津久井医院となる。
1920 大正9 34歳 9月長女葉子生まれる。
1921 大正10 35歳 2月『現代詩人選集』に詩3編が収録される。3月前橋の詩歌人たちと毎週1回文芸座談会を開催、主として「詩の原理」を講話。
1922 大正11 36歳 3月『月に吠える』再刊(アルス)。4月アフォリズム集『新しき欲情』刊行(アルス)。5月『新しき欲情』批評を上毛新聞が特集。5月号「短歌雑誌」に「現歌壇への公開状」発表。9月次女明子生まれる。
1923 大正12 37歳 1月詩集『青猫』刊行(新潮社)。5月白秋夫妻ら萩原家に1泊。7月詩集『蝶を夢む』刊行(新潮社)。8月伊香保滞在中の谷崎潤一郎を妹らと訪問。
1924 大正13 38歳 2月雑誌「新興」創刊号発表の「情緒と想念―情緒哲学」で同誌発売禁止。
1925 大正14 39歳 2月上毛マンドリンクラブ「萩原朔太郎氏上京送別演奏会」開催。妻子と上京、府下大井町(現・品川区内)に仮寓、初の貧乏体験。4月府下田端(現・北区内)に転居、近所に室生犀星・芥川龍之介在住。このころ犀星をとおして堀辰雄、中野重治らを知る。8月詩集『純情小曲集』刊行(新潮社)。11月号から「日本詩人」の編集を佐藤惣之助と担当。11月妻稲子の健康のため、神奈川県鎌倉に転居。
1926 大正15
昭和元
40歳 11月東京府下馬込村(現・太田区内)に転居。
1927 昭和2 41歳 6月前橋の萩原家、石川町から北曲輪町七十一番地(現・本町一丁目)へ転居。6月湯ヶ島に一カ月滞在。詩人三好達治に初対面。
1928 昭和3 42歳 1月詩人協会発足、評議員になる。このころからダンスを習う。2月エッセイ集『詩論と感想』刊行(素人社)。3月『萩原朔太郎詩集』刊行(第一書房)。12月詩論集『詩の原理』刊行(第一書房)1700部。
1929 昭和4 43歳 4月『現代日本文学全集』第37巻(改造社)に詩24編が収録される。7月稲子と離婚、二児を伴い帰橋。9月以後前橋来住の草野心平、萩原恭次郎らと往来。このころ「上毛マンドリン倶楽部」演奏会にも出席。10月アフォリズム集『虚妄の正義』刊行(第一書房)。11月単身上京、赤坂区檜町(現・港区内)のアパート乃木坂倶楽部に仮寓。12月父密蔵発病、重態となり帰郷。
1930 昭和5 44歳 7月父密蔵死去、享年77歳。10月妹アイとともに上京、牛込区市ヶ谷台町(現・新宿区内)に居住。
1931 昭和6 45歳 5月歌論集『恋愛名歌集』刊行(第一書房)。9月世田谷区下北沢(現・世田谷区内)に母ケイ・二児・妹アイと居住。
1932 昭和7 46歳 12月詩人丸山薫を知る。
1933 昭和8 47歳 1月(推定)世田谷区代田一丁目(現・世田谷区内)に自宅を新築、入居。4月新築披露に室生犀星・竹村俊郎を招く。6月個人雑誌「生理」創刊(1935年の終刊までに5冊発行)。「郷愁の詩人与謝蕪村」ほかを発表。10月妹アイ、佐藤惣之助と結婚。
1934 昭和9 48歳 4月北原白秋・室生犀星とともに大手拓次の遺骨を上野駅頭で送る。6月詩集『氷島』刊行(第一書房)。このころ中河与一を知る。7月明治大学文科文芸科講師となり毎週1回詩についての講義を担当。
1935 昭和10 49歳 4月エッセイ集『純正詩論』刊行(第一書房)。10月アフォリズム集『絶望の逃走』刊行(第一書房)。11月小説『猫町』刊行(版画荘)。この年(推定)大阪中央放送局「ラヂオ詩壇」投稿の選を担当。
1936 昭和11 50歳 「四季」の同人となる。3月詩集『定本青猫』刊行(版画荘)。俳論集『郷愁の詩人与謝蕪村』刊行(第一書房)。4月新潮文庫版『萩原朔太郎集』(現代詩人全集)刊行。5月随筆集『廊下と室房』刊行(第一書房)。8月萩原栄次重態のため大阪に見舞う。11月瀬戸内海佐美島の柿本人麻呂碑除幕式に参列。この年、特に各詩誌でのエッセイ随筆等の活動が盛ん、雑誌・新聞等の掲載数は年間120点にのぼり前後数年間のピークとなる。
1937 昭和12 51歳 2月帰橋、上毛新聞社主催「朔太郎歓迎会」に神保光太郎らと出席、磯部の大手拓次の弟の家(旅館)にも宿泊。3月エッセイ集『詩人の使命』刊行(第一書房)。9月エッセイ集『無からの抗争』刊行(白水社)。同書検閲で部分削除となる。
1938 昭和13 52歳 3月エッセイ集『日本への回帰』刊行(白水社)。4月大谷美津子と結婚(美津子入籍せず)。
1939 昭和14 53歳 2月妻美津子アパートに居住。9月詩集『宿命』刊行(創元社)。10月室生犀星と旧制水戸高等学校で講演、翌日山村暮鳥未亡人らと暮鳥晩年の地・磯浜を訪ねる。伊藤信吉著『土の唄と民話』に序文を寄せる。
1940 昭和15 54歳 3月朔太郎編『昭和詩鈔』刊行(冨山房)。7月アフォリズム集『港にて』刊行(創元社)。エッセイ集『帰郷者』刊行(白水社)。10月エッセイ集『阿帯』刊行(河出書房)。11月『萩原恭次郎詩集』の題字を書く。12月「『帰郷者』その他」で第4回透谷賞受賞。
1941 昭和16 55歳 2月東京放送局から「文芸雑感-現代詩について」を放送。9月風邪をこじらせて就床。10月萩原朔太郎編『樋口一葉全集第五巻』刊行(新世社)。
1942 昭和17 5月11日肺炎のため東京の自宅で死去、享年55歳。13日同じく自宅で告別式、31日前橋・政淳寺萩原家墓地に埋葬。法名・光英院釈文昭居士

※『萩原朔太郎全集 第15巻』(筑摩書房刊)所収の伊藤信吉・佐藤房儀編の年譜を基に作成しました。

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